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浮世絵木版画の誕生と発達の経緯 ~ 葛飾北斎、歌川広重の二大風景画家の出現まで

【浮世絵の出現】
 浮世絵は、一般的に浮世絵版画を指すことが多いが、実際は、肉筆画と版画とを含めた呼称であ。
 浮世絵は二面的な性格を有しており、一つは、特定の注文者あるいは、ごく限られた少数の購買者の需要を満たすために制作された肉筆画であり、もう一つは、大量に生産されることを目的として制作された版画である。
 版画(=印刷)という手法は、浮世絵の特性である大衆性を支える重要な要素、技法であった。
 浮世絵が、商業ベースに乗った絵画であり、その報道性からある種のマスメディア的位置にあり、娯楽的要素とともに教習要素を持つが、その特性を可能にしたのは、版画(=印刷)の技法の発達と言えるだろう。

 「浮世」という言葉は、無情の世、この世の中、世間、人生など人間の根源的な感覚から出た語意であると解釈され、元来、成語された経緯は、仏教的な、例えば煩悩からの解脱に反して発生した「憂き世」と、漢語の「浮世」(ふせい)とが、混淆して成った語であるという。

 文献上では、「浮世絵」の文字が、出現したのは、天和年間(1681~1684年)であるとされ、天和元年(1681年)刊の俳書『つれづれ草』が初見で、天和2年(1682年)刊行の『絵本月次の遊び』(菱川師宣画)の序文中には「~菱川氏の誰といひし絵師二葉の古より此道に心を寄せ日頃うき世絵と言ひしを自然と工夫して今一流の絵師となり云々~」とある。当然だが、文献上の以前から、浮世絵という語が使用されていたことが十分推察される。

【新たな江戸文化の発生】
 江戸幕府の開府以来、世情は政治的にも文化的にも安定が見られ、江戸も新興都市として膨張を続けていたが、明暦3年(1657年)1月18日、江戸の主要部分の大半が、焼野原と化し、死者10万7千人超と記録される、「明暦の大火」と呼ばれる大火災が発生した。このため、江戸は復興が余儀なくされ、この復興の時点で必然的に新たな江戸文化が発生が起きたのである。
 こうした、江戸文化の復興期に画壇に出現したのが、時代のスーパー・スターとも言える菱川師宣であった。師宣は、墨摺絵入り本・絵本を数多く手がけた。
 この菱川師宣や杉村治兵衛などの活躍により、風俗画が肉筆画と版画との両面を共有し、浮世絵として確立していったのである。
 版画においても、当初の墨一色ものから、色彩が意識されてきて、墨摺絵に筆彩色を施す手法が初期にとられ、丹絵、紅絵、漆絵と呼ばれる筆彩版画の手法が出現していった。
 延享年間(1744年~1748年)頃に、貞享年間(1684年~1688年)頃から約60年間にもわたって行われた筆彩版画に変わって、色の部分まで木版で摺刷する色彩版画が刊行された。これは紅摺絵といわれ、紅・黄・藍など原色に近い3、4色の摺刷に過ぎなかった。
 しかし、これによって、画面全部の色彩を木版で大量に摺刷することが可能になり、後の錦絵完成の第一歩として、画期的で重要な出来事であった。

【錦絵の完成】
 錦絵は、紅摺絵などと比べ、第一に、用紙がより高級な奉書紙になり、第二に、色彩が2、3色の単純色から多色摺の複雑な混合色によって現実的色彩の表現が可能になり、第三に、形状が細絵中心から正方形に近い中判中心に、さらに大判へと発達し、第四に、技法が背景を白地に残していたのを色で摺りつぶす、地潰し、また、無色で摺刷する空摺や、肉摺(キメ出し)の技法を用いて効果的な画法を作製するなど、よりリアルな描写を可能にした。
 明和2年(1765年)頃が、錦絵が創始した時点とされる。鈴木春信の独自の美人画スタイルが一世を風靡し、その後、天明年間(1781年~1789年)から寛政年間(1789年~1801年)にかけて、錦絵はピークを迎え、喜多川歌麿、鳥居清長、東洲斎写楽など全浮世絵師中のトップランクの者が排出され、「錦絵黄金時代」と呼ばれている。

【葛飾北斎、歌川広重の登場】
 その後の文化年間、文政年間(1818年~1831年)は、幕末の町人文化の爛熟期と言われる。この時代に登場した葛飾北斎が風景画を確立し、代表作の大判錦絵『富嶽三十六景』(全46枚・西村屋与八版)は、文政6年(1823年)頃より作成が始まり、天保2年(1831年)頃から同4年(1833年)頃にかけて刊行されたとされる。この作品により、今日、北斎は世界的著名な画人と評価されている。
 また、北斎を追うように、歌川豊広門下の歌川広重が街道をテーマに風景版画を発表した。
 天保4年(1833年)頃から、代表作である、大判錦絵『東海道五十三次』(全55枚・保永堂版)の出版企画に入ったとされ、翌、天保5年(1834年)にこのシリーズは完成したとされる。
 この作品の発表により、広重は、一躍風景画家としての地位を確立したと思われ、この後、約20種の東海道物を刊行している。

 北斎の大判錦絵『富嶽三十六景』、広重の大判錦絵『東海道五十三次』はともに、天保年間(1831年~1845年)に刊行されているが、この時代は、浮世絵が文献上に登場した天和年間(1681~1684年)から丁度150年が経過した頃である。
 この二大風景版画シリーズが世に出てから、さらに幕末、明治、大正、昭和、平成の180余年を経て、今日に至っている。

 江戸期の技を脈々と受け継ぐ、現代の日本人、彫師・摺師の手によって完成された、手摺木版画作品は、絵師・葛飾北斎、絵師・歌川広重の「令和版の錦絵木版画」として、100年後、200年後の評価にも耐え得るものであると確信している。


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葛飾北斎 手摺木版画 「凱風快晴」「神奈川沖浪裏」2点セット-送料無料です


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歌川広重 手摺木版画 「庄野白雨」




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人間味溢れる風景画、歌川広重「東海道五十三次」

 天保4年(1833年)、版元・竹内保永堂から、当時、新進絵師に過ぎなかった歌川広重の「東海道五十三次」が刊行された。この風景画は、当時、絶大の人気を得た。それは人々が今で見たことのない風景画の数々であり、人間らしさ溢れる絵が、観る者の共感を得、広重の清浄で、和やかな暖かい絵に接して、人々は喜びを感じたからに他ならなかった。

 天保3年(1832年)、広重は、幕府から朝廷への吉例馬献上の一行に加わって江戸から東海道を下った。この道中、広重は、街道、宿場の風景などをスケッチし、残し、これをもとにして描いたのが保永堂版「東海道五十三次」である。すべて広重の独創から生まれたもので、詩情に溢れた、旅愁、哀感のある、人間味に溢れた風景画である。

 当時、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」、歌舞伎の「独道中五十三駅」(ひとりたびごじゅうさんつぎ)が人気になるなど、江戸中が東海道ブームであったというが、そういった時代背景もあり、新進絵師の大作続絵は世に出ることになったのである。

 広重の絵の中にも、「東海道中膝栗毛」を参考にしたと思われる絵が何点かある。

 弥次郎兵衛と喜多八が丸子宿の茶店で名物、とろろ汁を注文する、「丸子(名物茶店)」の図、御油に辿り着いた弥次郎兵衛と喜多八(とおぼしき旅人)を強引に引き込もうとする客引き女を描いた「御油(旅人留女)」の図である。

 「東海道五十三次」全55図の中では、「蒲原(夜の雪)」、「庄野(白雨)」、「亀山(雪晴)」の3図が特に絶品、3大名作とされている。

 「蒲原(夜の雪)」は保永堂東海道五十三次の最大の傑作で、広重の雪景では最も優れた作とされる。
 その一方、東海道沿のこの辺りは雪が少なく、絵に該当する場所も定かでないという説がある。

 しかし、広重は、創造性をもって、蒲原を「夜の雪景」の世界として描いたと言えよう。

 歌川広重は、保永堂東海道五十三次において、四季、雨・風・雪・霧などの自然現象、朝・昼・夜の一日の変化を各図に取り込むことで、作品全体に変化、興趣を出している。


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歌川広重「蒲原」




    

光と水の世界に挑んだ、躍動の 「黒富士」 ― 葛飾北斎「山下白雨」

 山下白雨には、二つの気象が表現されている。

 一つは中腹から山頂にかけての、積乱雲が湧上がる夏の晴れ渡った空(晴れ)。 一つは裾野から下界へと続く「黒」(黒雲)に表現された、にわか雨(白雨)。右下に描かれた稲妻が、天候の急変を物語っている。

 また、北斎は二つの気象を描くことで、富士の高さ、偉容も同時に表現している。

 「赤富士」(凱風快晴)に対して「黒富士」と言われており、静と動の対照的な富士の景観となっている。

 この作品も富士を対象にした、移りゆく「光と水」の世界を描いた作品と言えよう。
 山頂には夏の強い「光」が差し、下界の雨 =「水」は、黒色の裾野の広がりが暗示している。

 大地の躍動を感じさせる作であり、富嶽三十六景中の三大名作の一つと言われている。


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葛飾北斎「山下白雨」



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富士を対象に、移りゆく「光と水」の世界に挑んだ北斎 ― 葛飾北斎「富嶽三十六景」

 「四季晴雨風雪霧天の造化に随い景色の異るを筆端に著す」

 文政6年(1823年)に出された絵手本(教習本)に掲載された、「富嶽八體」(ふがくはったい)の広告である。
 四季、晴れ、雨、風、雪、霧といった自然現象の変化に従って、その景色を変える富士を筆で表わすとした北斎の意図は、後の「富嶽三十六景」に生かされ、続くものである。

 富士という一つの対象が、刻々と変化する自然の中で、異なる姿を見せる有様を、筆で描き尽くしたいと願った北斎は、究極には「光、水といった捉え難いもの」を描くことを目指したのだと言う。

 「甲州石斑沢」では、富士は彼方に天高く聳え、裾野は広がりを見せ、藍の濃淡で、夜明け前の薄明りの光の世界を著している。
 逆巻く怒涛の大波を遠望の富士とともに表現した「神奈川沖浪裏」。湖面の逆さ富士を描き、水を表現した「甲州三坂水面」など。

 「富嶽三十六景」の数々から、光、水を捉えようと挑んだ北斎の意図が見て取れる。

 「光と水」に挑んだ北斎の画技は、印象派の画家、クロード・モネにも通じるものだという。
 モネも光によって刻々と変容する世界を、「睡蓮」の連作などで表現している。

 モネのフランス・ジヴェルニーの家には、所狭しと浮世絵が飾られ、研究者によると、そのうち北斎の作品は22点、「富嶽三十六景」は9点あったとのことである。
 もちろん、「凱風快晴」「神奈川沖浪裏」「甲州石斑沢」も含まれていた。

 刻々と移りゆく光と水の世界。二人の巨匠が挑んだ世界である。


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葛飾北斎「神奈川沖浪裏」
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葛飾北斎「凱風快晴」

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葛飾北斎「神奈川沖浪裏」

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彫師 : 前田謙太郎
摺師 : 遠藤忠雄、佐藤景三
文化財保護法により「重要民俗文化財選定保存技術」として認定
用紙 : 越前生漉奉書紙
寸法 : 絵柄 … 天地32㎝×幅47㎝
      額  … 天地47.5㎝×幅62.6㎝
税込価格 … 30,240円
  
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はじめは赤くなかった北斎の「赤富士」 ― 葛飾北斎「凱風快晴」

 葛飾北斎の富嶽三十六景の中で、最大の名画として名高い「凱風快晴」は、一名「赤富士」とも呼ばれている。
北斎は、赤、藍、緑の三色だけを用い、富士の威容を描いている。
この「赤富士」は、実は、はじめ赤くなかったということが、近年分かっている。

パリのギメ美術館が、所蔵している天保2年(1831年)頃の版の「凱風快晴」は、一般に私たちが見慣れているものと大きく違っている。

富士の山頂付近は茶色、代赭色(たいしゃいろ)が少し続き、オレンジ色が徐々に淡くなり稜線付近まで続き、裾野から広がる青緑色と溶け合った色彩に変化している。
背景の空の色も、はっきりとした藍色をしているのは、山頂より、かなり上の部分だけである。

このギメ美術館の版は、研究者により、稜線などの輪郭線、木目などから判断され、日本の東京国立博物館所蔵の版(天保2年頃)より、初摺に近いものであることがわかっている。

北斎の「赤富士」は、はじめは、鮮やかな赤ではなかったのである。

当初、絵師である北斎の意図どおりに、彫師により版木が彫られ、摺師が擦り重ねて色を出していたものが、やがて、客の反応を見ながら、資本を持つ版元が色調を変えていったのである。この時代には、しばしばあったことだという。

北斎が残した「赤富士」。早朝の日の光を浴びた、神々しい富士の姿を捉えている。


葛飾北斎「凱風快晴」
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